| 文明噴火とは? |
文明の噴火は軽石を激しく噴出す噴火で、
1471年(文明3年)に大噴火があり、北岳の東山腹から溶岩が流れ出し、
その4年後1475年(文明7年)には、桜島南西部でも噴火。
さらに、その翌年1476年(文明8年)には、桜島西部で
再び噴火が起こり、噴出した軽石の量は非常に多く、
沖小島・鳥島が形成されるほどの大噴火でした。
この文明の噴火により、犠牲者を多く出した桜島は、
鎮火を祈願し真鍮の鉾が立てられました。 |
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| 安永噴火とは? |
安永の噴火は、噴火前日より地震が多く発生し、井戸から熱水が吹きだすなどの異変が観察されました。
南岳の南側山腹から次いで北東山腹で噴火が始まりだし、軽石や火砕流を噴火する激しい噴火が始まりました。
この時、長崎でも降灰があったと言われています。
さらに、溶岩も流れ出し、1781年(安永10年)には、桜島北東海土の噴火によって津波が発生し、被害が報告されています。
この一連の火山活動により、桜島北東島々・燃島・硫黄島・猪ノ子島・・などの6つの火山島が形成されました。
この安永噴火の犠牲者は153名で、その多くの人達は、降ってきた軽石や火砕流により亡くなったであろうと言われています。 |
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| 大正噴火とは? |
大正の噴火は、噴火の数日前から地震が多発し頂上付近で崩落が起こったり、また、海岸で急に温泉が噴出すなどの前兆現象が見られ、1914年(大正3年)には、桜島北部で地面の温度が上がり、冬だというのにヘビやカエル・トカゲなどが活動している様子が目撃されています。
この年の1月12日に噴火が始まり、溶岩が大量に流れ出し、5つの集落が溶岩流に埋まり、3つの集落が火砕流によって消失し、犠牲者58名、負傷者112名、焼失家屋2268戸と記録されています。
また、大量の溶岩は当時の瀬戸海峡を埋めて、大隈半島と桜島を陸続きにしました。
この噴火活動は、1916年(大正5年)にほぼ終息しました。 |
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| 昭和噴火とは? |
大正の噴火が終息した後、しばらく穏やかな状態となっていたが、1935年(昭和10年)南岳東側山腹に新たな火口が形成され断続的に噴火を繰り返すようになりました。
この噴火の溶岩によって、2つの地区が埋没し、大正の噴火のような激しい軽石の噴火はなかったものの、犠牲者1名、噴出物総量約1億㎥ときろくされています。 |
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| 知っといてください! |
大正の噴火の時、噴火の前兆となる異常現象が多発したため、住民の間で不安が広がり、桜島(東側)の住民は避難を始める人もいましたが、地元の行政関係者が(現在の鹿児島地方気象台)に問い合わせたところ、地震については震源が鹿児島北部であり、白煙については、単なる雲であると報告。
避難の必要はないと回答されたため、桜島西部において、住民の避難が遅れ、1月12日噴火直後、海岸各所において避難しようとする住民が殺到し大混乱となりました。
対岸の鹿児島市は鹿児島湾に停泊していた船舶を緊急に救護船としたが、間に合わず・・。混乱によって海岸から転落したり、泳いで対岸に渡ろうと、凍死したり、溺死する人が相次ぎました。
この教訓により、桜島爆発記念碑には、「住民は理論を信頼せず、異変を見つけたら未然に避難の用意をすることが肝要である」と残されています。
またこの日は、「科学不信の碑」とも呼びます。
情報機関や、情報技術が発達した現代、私達一人、一人、がこの言葉を胸に刻むべきではないでしょうか・・。 |
| 現在桜島では、あの時のように苦しむ人や、悲しむ人が一人でも減り、一人でも多くの人を救えるように、防災訓練や、噴石対策、土石流対策に徹底して取り組んでいます。 |
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